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2.準備期間~Command and Control(=災害・救急医療現場に入ったら、最高責任者を探し、自ら名乗って指揮下に入る)土壌醸成~
2月16日:院内ICLS指導員養成研修1回目。同時に、3月中旬に予定されている外傷初期救急(JATEC)および看護部門の院外研修を申し込み(結局、医師のみ開催)。
2月23日:院内ICLS指導員養成研修2回目。
3月2日:院内ICLS指導員養成研修3回目。
3月9日:院内ICLS指導員養成研修4回目終了。修了者7名。
3月11日:東日本大震災・三陸地方沿岸を大津波が襲い甚大な被害発生。
3月14日:「今はDMAT・自衛隊などの専門職に任せるべき時期。今、徳島にいる自分にできることを粛々とやろう」と朝礼訓示。徳島県医師会よりの第1回医療救護班参加調査に対し、参加表明。
3月16日:院内ICLS指導者研修修了者の中より派遣希望者募り、派遣職員4名を決定した。公務出張扱い・活動服貸与・準備運搬など含み業務の説明を行い、「留守番」院内業務を滞りなく行うための後方支援リーダーを残りの指導者に託す。
3月22日:徳島県医師会からの第2回FAXあり、再び参加表明。
3月24日:徳島県医療政策課より派遣決定連絡。院内業務リーダーを決め、留守中の指揮司令のスケジュール確定。
4月9-10日:JATECプロバイダーコース(東京)修了。コース後にDMAT派遣報告を聴講。
※多数の医学会が中止になる中、JATECだけはその趣旨から決行された。
4月11日:震災後1ヶ月。派遣2週間前。「松山千春『知恵のある奴は知恵を出そう、力のある奴は力を出そう、金のある奴は金を出そう、自分は何も出せないよという奴は元気出せ』という言葉に賛同する。また、非被災地の医療者ができる4つのこととして1.被災地に行くこと。2.被災地に行く人を支援すること。3.励ますこと。4.批判的な言葉を最小限にとどめること、特に4番目は特にお願いしたい。」と朝礼訓示。備蓄医療物資から物資供出のために、臨時の棚卸を開始。医療行為を『自己完結』できること、患者ニーズを『即断、即決、即、解決』できることを持参物資選択の柱とする。活動服準備(防寒防水白ジャンパー、カバーズボン、ジャージ上下発注)。
4月17日:100円均一ショップでプラスチック小分けケース各種、チャック付きビニール袋(便利!!)などを4人分大量購入。活動服(徳島限定「すだちくん」Tシャツ)購入。
4月18日:派遣1週間前。材料部の中に派遣物資の山ができ始める。全ての物品に「徳島県松永病院医療救護班」のシール貼付開始。破傷風トキソイド4人分準備。
4月21日:派遣3日前。派遣中の「後方支援会議」と「壮行会」開催。医療安全・医療情報管理・薬剤・材料購入・入退院調整・患者接遇・設備管理など平常時は副院長・師長・士長が行っている細かな「気配り」業務の分担を行い、全ての情報を一元管理し、「即断・即決、即、解決。後、報告」を外来看護主任に、クレーム処理・労務管理を総務主任に託すことを確認した。
4月22-23日:派遣1-2日前。懇意の業者さんから寄付物資を頂く。ほぼ不眠不休で、医療物資のパッケージング。ならびに、職員の安全確保のための特製サバイバルセット(コンパス・ランタン・地図含む)を小分け。同時に現地天気予報で豪雨冠水の見込みとの情報あり、長靴を持参するかどうか最後まで悩む(結局、持参)。
4月24日:出発当日。スタッフの見送り。厨房より「パン・おにぎり・ゆで卵・バナナ」準備。また、松永病院を出発時の4人分の荷物は11個110キロあった。『原則、医療資機材・薬剤は県で準備(これまでに派遣された医師等からの情報に基づき、県で用意して配送)。防寒具、白衣、身の回りの衣類、現金、携帯電話等は各自準備。』と事前連絡があったが、この点は全く独自行動をとらせて頂いた。ただし、我々4人の荷物全部に目立つ荷札を付け、素早く集荷、カートで運搬、団体行動!!という行動目標を立てており、『自己完結医療』という点で医療従事者が自ら医療物資を持参することは有効であったと考える。

 9時15分に徳島県庁に集合し、救護班が編成された時から、我々は「松永病院」の所属ではなく、医療救護班のコマンド下の活動員となった。活動内容は、「復命書」に詳しい。なお、携帯電話網は復旧しており、毎日、留守番の外来主任よりメール(入院・クレーム・病棟急変に関わる事で副院長決済となっているもの)のやりとりができるのは有難かった。

松永 写真1
徳島県医療救護班第14班

3.持参した装備~家訓「用意綿密」に従いて~
<常時携行ウエストポーチの中身>
 マスク(サージカル・N95)・手袋(メリヤス・ゴム・プラスチック・軍手)・ガウン・手指消毒アルコール・酒精綿・はさみ・絆創膏・消毒剤・裁縫セット(針・安全ピン・糸入り)マジック(赤黒)・テープ・携帯電話(FOMA・iPhoneの2台使用)・電池式充電器・トランシーバー・シャチハタ印鑑・はさみ・ホッチキス・メジャー・医師腕章・ガーゼ・多機能電波時計・ポケットティッシュ・マッチ・巾着袋・ビニール袋・タオル・ネームラベル・財布・運転免許証・名刺・3つ折傘・スミルスチック・携帯を首からつりさげる紐・伸びるコード(「帽子どめ」として売られている)

<救護セット(松永病院外来編)>
 聴診器・アネロイド式血圧計・SpO2測定器・体温計・小型家庭用吸入器・洗浄ビン・直注射針(18・20・22・25・27G)・静脈留置針(14,18,20,22,24G)・カテラン針・翼状針(22/24G)・点滴セット・延長チューブ・ソルデム1・ソルデム3A・フィジオ140/250ml・生食100ml・生食20ml・生食500ml・注射薬(ネオフィリン・アトロピン・ワソラン・ロゼクラート・ワイスタール)局所麻酔薬(ロカイン・キシロカイン・カルボカイン)・吸入薬(パルミコート・メプチン・ビソルボン)・内服薬(狭心症治療薬・降圧薬・安定剤・睡眠薬・気管支拡張薬・消炎鎮痛薬)・外用薬(ゲンタシン・デキサンG・ケナログ・オイラックス・ベギン軟膏・ブロメライン・オルセノン・アズノール・エラダーム・エラダームゲル・イソジンゲル・MS冷湿布)・ガーゼ・伸縮包帯(5・10・15)・弾力包帯(10)・さらし・酒精綿・外用消毒イソジン液・濡れティッシュ・滅菌綿球入り軟膏つぼ・切開縫合セット(メス・ペアン・コッヘル・持針器・針つきナイロン・縫合糸・針)・紙テープ・テープ・粘着包帯・アルミシーネ・防水ドレッシング・サランラップ・アルミホイル・テープ類・穴あきシーツ・滅菌シーツ・サバイバルセット(ビニール風呂敷・ひも・カッター・ビニール袋(チャック付き・ゴミ袋・小分け袋)・輪ゴム・マッチ・綿棒・爪切り・ペーパータオル)

<持参したが使用しなかったもの>
 長靴4人分(ただし悪天候時・冠水時は必要)・水8L(仙台で買わずに済みましたが重かった)・電池(電気が復旧していたので使用せず、避難所に寄付しました)

4.復命書 医療救護班の一医師として
 我々は松永病院から派遣されるが、ひとたび、救護班に入れば各々が一人の医療専門職として、司令官の指揮命令系統に所属する。これが日常診療と異なる災害医療のCSCATTT~Command(指揮命令)・Safety(安全)・Communication(情報伝達)・Assessment(評価)・Triage/Treatment/Transpor-
tation(トリアージ・治療・搬送)の最初のCである。我々が派遣された石巻市では、石巻日赤病院が合同医療救護本部となり、この指揮司令下で非常に統制のとれた活動が行われている地域である。地図とコンパスは自らのSafety:安全確保のために当院職員には持参させた。国土地理院発行の25,000分の1の地図があれば持参したほうがよい。3番目のC(情報伝達)に関しては、徳島県単一ラインで単一エリア担当であるため、チーム内での情報伝達には問題なかった。携帯電話でのメール・迅速な連絡なしでは今回の活動は不可能だった。iPhoneなどのスマートフォンは薬剤情報検索に有用だった。人の連絡先は有用な情報であり、即時、携帯電話に登録しておくのがよかった。

 被災地で展開される非日常的診療は、衝撃的だった。「戦う武器は自分で選んだ」往診セットは確かに、巡回先での迅速な医療処置を可能にした。「誰かに依頼・指示することなく、目の前の患者さんを助けることに全力投球し自己完結する」当たり前のことだが、孤独であった。しかし眼前の患者さんのために、連絡先を探し、自らを「私は徳島県医療救護班の医師です」と名乗って電話連絡し、依頼したことがうまくいった時の達成感は驚くほど高い。すべてが喪失された状況下では、ほんの少しの収穫で最大の幸福が得られ、気分が高揚する自分に気がついた。固定電話はまずつながらない。電話帳がないので電話番号がわからない。かかりつけの医院はどこですか?と不用意な質問をすれば、『先生も流されちまった』と息をのむような答えが返ってくることもある。生活環境が劣悪な避難所で発生する疾病を予防するには、生活環境を変えることが最善である。が、状況の好転が容易ではないことを知り、医師としてのジレンマに陥る。救護班の任務は被害状況を俯瞰することではない。眼前の患者を全力で救護することである。行政に批判的な言葉を口にしたくなるような場面もあったが、非被災地の医療人の心得を思い出し、自ら口をつぐんだ。

松永 写真2
救護所でも5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)

 官民一体のドリームチームで仕事ができたという達成感はあったが、後ろ髪をひかれる思いで活動を終えた。諸行無常を感じたが、同行した当院スタッフを誇りに思う瞬間が力になった。震災から2ヶ月経過、帰還してから2週間経った現在、石巻で診たあの患者さんが気にかかる、と同時に、徳島のご高齢の患者さんから「ご苦労様でした。」「無事に帰ってこられてよかった」等と声をかけて頂き、国を憂う思いに胸を打たれることもある。そして、医療救護班を体験したものとして、被災地支援継続の必要性を伝え続ける責務を感じている。

(医師・副院長 松永厚美)
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