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東日本大震災に関する情報

林 秀樹病(ホウエツ院)

 ホウエツ病院林秀樹です。徳島県医師会の皆さまには何時もお世話になっています。5月号で第3班、第5班からの報告がありましたが、小生は震災から丁度1ヶ月経った時点の4月12日から16日まで第10班に参加したので報告致します。



 ご承知のとおり各医療救護班は行きから帰り着くまで5日間のスケジュールです。事前に現地の状況は県医師会や県医療政策課(特に鎌村好孝先生)から随時メールで頂き、大変心強かったです。前日に大きな余震がありましたが、その後の出かける直前まで仙台市内、石巻市を含めた電気、水道などのインフラの状況も知る事が出来、携帯する準備物にも参考となりました。また、出発前日の午後8時前に第9班の現地からお電話でカーナビがあった方が良いと聞き、慌てて閉まりかけたイエローハットに電話をして開けて頂き、現地へ持参出来ました。後に述べますが、これが現地では大いに役立ちました。

 第1日目は、午前9時半に徳島県庁に集まり副知事をはじめ県職員さまの激励のもと、バスに乗り組み伊丹空港へ。伊丹空港からは空路で山形空港へ、そこからバスで仙台市内へたどり着いたのは午後6時過ぎ。ホテルにチェックインした後に宮城県庁へ徒歩で行き午後8時半に前の第9班と合流、申し送りをしました。医療救護班は、(1)健保鳴門病院とホウエツ病院の合計6名、(2)大学チーム4名の2チームで石巻市内、心のケアチーム3名と保健師チーム2名で仙台市若林区、保健師チーム3名は気仙沼市、災害支援ナース2名は石巻市福祉避難所(迎賓館)、介護支援チームは南三陸町へと分かれました。医療救護班の(1)(2)は各々宿泊施設が異なり、我々(1)はホテルモンテエルマーナ仙台(JR仙台駅の近く)、(2)は仙台長町ホテル(三陸自動車道インター近く)で離れており、前者には車で日産セレナ、後者にはエスティマが申し送り時に引き継がれました。エスティマにはカーナビが付いており、セレナには付いていませんでした。活動する救護所は同じ所ですが、ホテルが離れているので宿泊先から医療救護所への往復、最後の日以外の夜は別行動でした。

 初日夜には、(1)の小生を含め男性4名(女性2名は別行動)で食事に外へ出かけました。事前情報で知っていましが、仙台市内は阪神大震災よりも大きな震度に見舞われたにもかかわらず建築物の倒壊は皆無、全く平常に見え、お店に入っても普通に営業されており拍子抜けしました。しかしお店の方に伺うと電気、水道が再開したのは4月3日から、それまでは建物内部の片付けも大変であり、我々が来たのが丁度落ち着き始めた時期だったのです。ホテル内のお湯も我々の前の班から出初めたそうで、良いタイミングです。

 翌日4月13日朝、ホテルで食事を済ませて7時出発。駐車場まで徒歩で約10分、初めての道ですが当院から来た事務の吉川君が事前にナビを取り付けていて大助かり、ただ仙台市内を外れ三陸自動車道に近づくと道は混雑しており、また三陸自動車道も地震の影響で路面の凹凸が著しく速度制限も50km、松島近辺は常時のろのろ運転。仙台から石巻市の目的地までは約60kmの距離ですが、片道3時間近くかかりました。これを往復するだけで、うんざりですが吉川君毎日居眠り運転もせず堪えてくれました。車中の毎日朝8時半には統括である石巻赤十字病院へ目的の救護所へ行く事を電話で報告、更に最初の日は石巻赤十字病院に寄り、現地入りの報告用紙に記載(全員の住所、氏名、生年月日などの記載が必要であり結構時間を要するので、今後行かれる方は全員事前に用紙に記載し、時間の無駄を省く必要あり)、その後に目的地の万石浦中学校、渡波中学校に分かれて救護所で活動を開始です。先代の医療救護班と拠点地は変わっていませんでした。石巻市内中心部からこの救護所までの間の風景(瓦礫)は震災後1ヶ月経っても、5月号で第3班の中田先生の報告時と殆ど変わってない様子でした。ただ万石浦周辺は電気、水道は復旧し、学校の水洗トイレは使用出来ました。渡波は電気も未だでした。我々が去る1週間後には学校が新学期を迎える事もあってか、避難所に居られる方々の数はどんどん減っている様子でした。ただ帰る先はご自宅であり1階が津波で流され、辛うじて建っている2階の住まい等、安心して居住出来る場所などは有ろうはずも無く、その出て行かれた方々の把握、その方々へ医療も含めた色んな支援が出来る基盤つくりが急がれます。まさに在宅医療が主体になる移行の時期と思われます。

 万石浦中学校の医療救護所を受診される方は3日間通して毎日40人台、渡波中学校には数名でした。渡波は午前中のみの診療、万石浦は全日診療であり、(1)(2)合わせて医師3名居る為に、毎日交代で渡波に行き午後に合流しました。午後6時には毎日石巻赤十字病院で各県からの救護所で支援されている医師が集まり現地報告、情報交換を行っていますが、これも我々は3人の医師が交代で出席し、各々が同じ役割が出来る様に分担しました。

林秀樹 写真1

万石浦中学校内の医療救護所

 滞在中の5日間は毎日快晴で空気も乾燥、町じゅうを覆った津波による泥や瓦礫からの埃が混ざった細かい塵が舞い上がり、まるで黄砂の中に居る様で町中が黄色く霞んで見えました。救護所に来られる方も咳、咽頭痛、眼、鼻の刺激症状、これまで喘息の既往が無い方でも喘鳴を生じ呼吸器疾患の方々が多数おいでました。また、普段血圧の治療を受けられ130/80mmHgまでで良好なコントロールの方々が220/120mmHgと別人の様な状況になっていました。普段受けられていた治療に近づけるべく処方しましたが、被災された上に避難所生活という非常にストレスの堪る状況が影響して血圧のコントロールもままならない状況です。

 また、救護所に来られる方以外に、避難所で居住されている方々も見て回りました。高齢者や幼い子が殆どで、元気な方は殆どおいでず、恐らく自宅へ帰って被災後の片付けをしていると思われ、夕方になると自衛隊の入浴サービスには昼間見ない方々の長蛇の列が出来ていました。

 我々の居た避難所、中学校の倉庫にも色んな物資が山積みされていました。また、薬をはじめ医療物資の状況も常時救護所と徳島県とはメール等で情報が交換されており、足りないものは次の班が持参する等、継続した支援の強みが発揮されていました。また、提供しているお薬も最近の種類も多く準備されており、薬剤師さんは薬出しや説明は勿論、その管理にも非常に活躍されていました。また、その他の物品管理も含めて看護師さん、事務総出で毎日の日課とされていました。

 携帯電話での通話は当初の4月13日はNTT、SoftBankが使用出来ず、auのみ使用出来、翌日からは通話可能となりました。メールはいずれも使用出来ました。

林秀樹 写真2
埃の中の石巻街道 後方は石ノ森萬画館

 毎日130km程走り続けているセレナ号ですが、当初より床から異音、振動がありましたが、4月14日朝、渡波を通過中ついに車床から地面を擦る音がして緊急停止。車の下を覗くとスペアタイヤを収納するステーの螺子が外れていました。高速道路上で生じなかったのが幸いでした。とりあえず走れる状態にして救護所まで行き、自衛隊から工具をお借りして吉川君が応急処置。さらに異音の原因はずっと以前に地面からマフラーを打撲して損傷していた為と判明しました。当初の班は道路から未だ瓦礫も充分に撤去されていない状態での活躍、やむを得ない状況と思います。ただエスティマの乗り心地の良さは際立っていました。ホテルの居住性を取るか(ホテルは我々の方が絶対良いと思う)、車を取るか、かな??

 4月15日は、処方箋を打ち出ししているプリンターに異音を生じて徳島県へ報告。早速次の班に間にあう様に準備されていました。また、昼には心疾患の患者さまを石巻赤十字病院へ医師同乗で搬送、我々の足に使用している車を使った所、赤十字病院は医療間搬送の為に救急車で来ると判断していたらしく、病院に着いた時に申し送りに少々トラブルを生じた様子です。未だ通常診療が開始されてない時や、救護所からの搬送には救急車を使用した方が円滑に出来るのを知りました。

 最終の診療が終了時、腹痛の方が来られました。尿路結石が疑われ超音波装置があったので使用するもゼリーが見当たらず苦戦しました。

 4月15日診療終了後、石巻赤十字病院経由で直ちに宮城県庁へ、第11班への申し送り開始となる午後8時半に間に合う様に向かいました。申し送り後、徳島県医療政策課の方からカーナビを次の班へ貸出しのご希望がありました。勿論、快諾致しました。今後の避難所は、利用される方々事情によりその規模や分布が刻々と変化すると思います。徳島県は継続した支援を続ける為に現地で足となる車が更に必要になると思います。慣れない土地で円滑な足の確保にカーナビは必要ですよ。

 申し送りが終了後、今回支援に参加された第10班の方々と楽しく夜食事会が出来ました。介入した地域によりまだまだ格差がある事を直接伺えて大変勉強になりました。

 4月16日は、朝から来た時とは逆にバスで山形空港へ。帰りは高速の山形道を利用出来、非常に早く空港へ着きました。空港へ着く前頃から空が暗くなり、東北へ来て初めての雨となりました。とても冷たい雨で、昨日の石巻市内は20度もあったのに、今は小雪もちらつく程に冷え込んでいるそうで、避難所に居た方々を思うといたたまれなくなります。今後梅雨を迎えて感染症も問題になってくると思われます。更に昼前に山形空港ロビーでテレビを見ていると、何と津波が心配される程に大きな余震が起こっていました。まさに我々の班は天候にも、色んなタイミングにも恵まれた時期であったと思います。

林秀樹 写真3
第10班医療救護班 帰りの山形空港ロビー

 伊丹空港から徳島へ帰りのバスの中では参加された方全員でそれぞれが今回の救護活動で感じた事、思った事などを話し合いました。25名の参加者の中で何と小生は最長老でした。皆さまの思いは、やっぱり日本はひとつ、これからも色んな面で被災者を支えて行こう、この苦悩を活かし日本全体を良い国にしようでした。その日の夕方5時過ぎには徳島県庁に帰ってきて、飯泉知事をはじめ大勢の県職員の皆様にお出迎えを頂きました。土曜日であるのに本当にありがとうございました。

 今回、実際に宮城県まで行った事により、震災後の当初のDMATの活動をはじめ、救急に携わる医療関係の方々と徳島県医師会、徳島県庁に携わる方々の見事な連携と熱心な取り組みを知る事が出来、感激致しました。おかげで無事に貴重な体験をさせて頂きました。ありがとうございます。また、一緒に救護班を組ませて頂いた健保鳴門病院の田上先生をはじめスタッフの皆様、徳島大学の長井先生をはじめスタッフの皆様、本当にありがとうございました。また、当院の様な医師数も少ない小規模病院、また、院長の立場にも拘らず小生の我が儘を受け入れてくれ、留守の間とんでもない状況になっていたのに頑張ってくれた医師をはじめ当院の職員達、また、妻や子供にも改めて感謝致します。

 今後は、5月16日から21日まで、当芳越会グループホームの介護職員が、徳島県からの支援チームに参加する予定(南三陸町)です。皆さまと共に頑張り、色んな事を学び、身につけてこれから地域医療に活かし、ひいては徳島県のお役に立ちたいと思います。

 当ホウエツ病院は地域の小規模病院ではありますが、救急、災害も含めて皆さまと共に歩んで生きたい所存です。今後ともよろしくお願い致します。

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