私の初マラソン

日比野敏行

はじめに
  いずれはフルマラソンを走るのが、ジョガーの夢である。私も昭和 60年1月3日、 4610ヶ月から運動不足解消のためにジョギングを始め、2年目に何とか   20qは走れるようになり、次第にフルマラソンに挑戦したいという気持ちが募ってきた。まだ   42.195qの長丁場を走りきれる自信はないが、参加するからには是非とも完走してみたい。3年目の正月から密かにコース選びを始めた。 

コース選び
  月刊誌「ランナーズ」によると、日本では5qから  250qまでのマラソン大会が年間におよそ 1,000 回、そのうちフルマラソンの大会が約 80回開かれている。なるべく近辺で、しかもアップダウンの少ないコースに的を絞って調べてみると、3月8日に大阪・長居公園で行われる新体連大阪マラソンが第一候補に上がった。

  長居競技場はいま大阪国際女子マラソンの発着場になっているが、この競技場を取り巻く長居公園周回コースは1周 2,813mで、 15周すると丁度フルマラソンの距離になるように作られている。1周2qの徳島中央公園周回コースを少し長くした感じなので違和感はない。平坦だし、駄目だと思えばいつでもリタイアできる利点もある。

目標タイム
  とにかく完走が目標。25qまでは1kmを5分(100mを30秒)ペースで走る自信があるが、それ以上の距離は未経験なので、1qあたり 20秒の余裕をみて5分 20秒(100m32秒)ペースで走ることにする。このペースを守れば、1周を  15分0秒、 15周を3時間 45分0秒で走れる計算になる。

大阪へ出発
 昭和62年3月7日、マラソン大会前日は朝から生憎の雨。午後1時から徳島県立看護学院・準看護学科の卒業式と県医師会・勤務医部会の理事会を終え、午後4時 30分に徳島空港に向かう。ところが、大阪が大雪のため予定していた5時 20分発の飛行機は欠航。次の便もいつ出るか分からないとのこと。2階のレストランでビールを飲みながら、気長に最終便まで待つことにする。

  ふと気がつくと、「大阪へお越の日比野さん、お電話がかっかています」との場内放送が聞こえる。急いで電話に出ると、「お父さん、大阪は大雪よ。阪神高速も不通で高石市の義兄も迎えに行けないと言ってるから、もう諦めて帰ってらっしゃい!」と家内から引き戻しの電話。一念発起して家を出た以上、そう簡単に諦める訳にはいかない。「まあ、もう少し待ってみるわ」と粘る。

  粘った甲斐があり、6時 20分発の便が40分遅れで出発。しかし気流が悪く、途中の揺れのひどさは正にジェットコースター並み。家内の言ったように、空港から引き返した方が良かったのかも知れないと、一瞬不安がよぎる。

 不安的中! 無事に大阪空港に着陸したものの、阪神高速道路は凍結のため全線通行禁止とのこと。タクシーもなく、唯一の交通手段は新大阪駅行きのバスのみ。バス停は長蛇の列。寒さに震えながら1時間ほど待って新大阪駅へ行き、ホームの売店でソバを食べる。大阪・難波と乗り継ぎ、高石市の義兄の家に着いたのは午後 11時過ぎであった。途中みぞれ混じりの雪が降り、明日の天気が思いやられる。

長居公園へ
  3月8日レース当日、午前6時起床。幸い雪はやみ、曇りで無風。朝食はお餅3個とコーンスープ。餅は「持ち」が良いとか。義兄の車で午前9時5分長居競技場に到着。受付を済ませ、ロッカー室で着替えをする。

 ゼッケン番号 228番。公園全体に前夜の雪が残り、気温は6゚C。かなり寒いが長時間のレースを考えてランニングと短パンにする。初めてのフルマラソンなので、いささか緊張しながら 20分ほどウオーミングアップ。

初マラソン
  参加者 406名。コース説明のあと、午前 10時一斉にスタート。オーバーペースにならないように、1周毎に時計をチェックしながら走る。周回コースなので、誰が何周したかをチェックする係員がいる。私の場合は 201番から 250番までの走者をチェックする係員の前をゼッケンを見せながら走る。5周目(14q)までは至極快調。押さえ気味ながらも1周平均 1424秒で、予定のタイムより3分速い。 10周目(28q)までも依然として好調。下肢の痛みも疲労感もない。この間の5周も1周平均 1436秒で、予定より2分短縮。

   ところが 13周目(35q)になると次第に疲れが出て、足の裏が擦れて痛み出す。下肢全体が鉛の棒を入れたように重くなり、とても自分の足とは思えない。身体中のグリコーゲンが枯渇したのか、足だけでなく思考力までが極端に鈍る。周りの景色もスローモーションの映画を見ているような感じで、不思議なことに自分がいま何周目を走っているのかどうしても思い出せない。

  この頃になると、さすがに出発時の元気はどこえやらで、歩き始める者が多くなる。足にマメができ靴を脱いで道ばたに座り込む者、腹を抱えてトイレへ駆け込む者、足がケイレンして倒れる者もいる。誰に頼れる訳ではなし、手を貸す訳にもいかず(失格になる)、正に孤独な地獄レースである。

 あと1周なのか2周なのか思い出せないまま、もうやめようと思ってスタート地点に着くと、周回チェックの係員から「最終回ですから頑張って下さ〜い!」と言って赤いタスキを渡され、やっと正気に戻る。正直なもので残り一周と聞くと、これで地獄ともおさらばかと途端に元気が出る。ところが気持ちとは裏腹に、まるで身体が言うことをきかない。最後の気力を振り絞って 15周目に向かったものの、スピードは一向に上がらず、ゴール前のわずか 500mが揚子江の向こう岸のように思えた。

  結局最後の5周は予定タイムを5分ほどオーバーしたが、 10周目までの5分の貯金に助けられ、当初の目標タイムを 13秒オーバーした3時間 4513秒でゴールイン。給水のために5、10121314周目にエイドで5回立ち止まっただけで、コース途中では1度も歩かず止まらず、正に亀の歩みのタートルマラソンそのものであった。

レース直後
  ふくらはぎが硬直して、ロッカー室まではまるでアヒルのヨチヨチ歩き。膝を曲げると大腿部、身体を曲げると腹の筋肉がケイレンする。横にバタンと倒れたまま靴を脱ぎ、苦労して着替えを済ます。

 こんな苦しいレースは二度と出るまいと心に誓いながら、重い足を引きずって大会本部に完走証をもらいに行くと、「 49歳で初マラソンなら、3時間 45分は立派なものですよ」と慰めてくれた。

大阪空港へ
  大阪駅までが、またまた難行苦行。膝を曲げると痛むので、どうしても地下鉄・長居駅の階段が降りられない。梅田駅までタクシーに乗ろうと思って待っていると、見るからにランナータイプの青年が「マラソンは初めてですか。荷物を持ってあげますから、手すりに掴まって後ろ向きに降りてみて下さい」と声を掛けてくれた。親切な言葉に甘えて荷物を託し、なりふり構わず手すりにしがみついて後ろ向きに階段を降りると、不思議なことにあまり脚の痛みを感じずに降りられた。この青年、同じ日に行われた琵琶湖マラソンを2時間 20分ほどで走り、その帰りに長居公園へ様子を見に寄ったとのこと。私に荷物を渡しながら、「2・3回走れば足の痛みもなくなりますよ。頑張って下さい。」と、さりげなく去って行った。

  梅田で寿司屋に入り、ビールを飲む。走った後のビールの旨さはまた格別であった。大阪空港に着く頃には足の痛みもかなり楽になり、人目を引かない程度の歩きができるようになる。

徳島空港への機内で
  徳島空港まで 30分の機内で色々な思いが去来した。

  《ジョギングを始めて僅か2年でフルマラソン挑戦とは、 49歳の年齢を考えればいささか無謀であった。幸いコースが平坦だったから良かったもの、アップダウンの多いコースなら 35q付近でギブアップしたに違いない。しかし、2年前にジョギングを始めた当時は、徳島公園1周2qを走るのに4・5回休まなければ息が続かなかったことを考えると、 50近くになっても未だ身体の適応力があるらしい。とは言え、当直医を頼んで苦労して大阪まで行き、飛行機なら僅か2・3分の距離を4時間もかけて走るとは如何にも馬鹿げているではないか。増して寿命を縮めるような最後の2・3周の苦しさを考えると、もうフルマラソンには絶対に出ない!》

レース翌日
 ふくらはぎとアキレス腱に痛みを感じる以外、特別な自覚症状なし。階段を昇るのはさほど苦痛を感じないが、降りるのは相変わらず一苦労。足の痛みをこらえて何とか回診を済ます。家族から「それ見たことか」との総攻撃も受けず、まずはやれやれといったところ。

おわりに
  内心では身体の異常が心配になり、血液検査をしてみた。すると、筋肉に含まれている CPKMbLDHなどの成分が驚くほど血液中に増えており、心筋梗塞のデータと極めて類似していることに気付いた。その後はレースの度に採血道具を持参して参加しているが、もう走るまいと決心したフルマラソンを以後 10年間で9回走ったのも、ランニングが身体に与える影響について調べてみたいという医学的な好奇心が大きな要因になっている。これまでスポーツ医学に関する論文や学会発表も 10回を超え、初マラソンの苦い体験が私のスポーツ医学に対する取り組みに少なからぬ影響を与えたことになる。

  精神科医で自身ランナーでもある井上和俊先生からこの度「ときめき」という日本語特有の素晴らしい言葉を主題にして原稿を依頼された。理系の私にとっては難しいテーマであるが、対象が何であれ、人が「ときめき」を感じなくなった時、若さが失われるのかも知れない。

  実はいま、私は新たな「ときめき」を覚えている。1週間後に迫った  1020日の「第3回四万十川100 qマラソン」である。

  (平成8年10月14日記)

(徳島県精神保健協会 編集・発行「めんたるへるす」 1996年、45号より転載)